神霊狩小説A


(31)  12月×日 水天町・夕方


 
 
「なんも、おかしなこつ、なかね」
 祈祷所を出ると、外はすでに日が落ちて、コウモリが飛び始めている。
「……信につねられた頬っぺたが痛かよ。」 さすがに思いきりつねられると、痛かったらしい。顔に手を当てている。
「あげんとこで寝とるけん。」
 うん。昨日あんまり寝られんかったからかな。香には気がつかなかったのか。寝起きでぼんやりしているような状態だ。
「なんしに、行ったと」
「だって信、なんも言ってくれんけん。」
「だからってあげんとこ、なしておまえがわざわざ……」
 あまりな無警戒さに腹立たしくなって、文句を言いながら歩いていると、横にいると思っていた太郎がいない。
  後ろを見ると、太郎は立ち止って地面を見ている。
「じゃあ、なんで言わんとよ」 信を見上げて、つぶやくように言った。
「た……」
「じゃあ、なしてなんも言ってくれんとよ! なんね! 信、いつも自分だけで悩んで、なんで僕に、なんも言ってくれんと!!」
 太郎がこんな風に声を荒げて怒るなんて想像できなかったので、本気で驚いた。
「太郎…」
 太郎は地面を見たまま、唇を噛んでいる。
「後で、ちゃんと話すけん。」
 太郎は動かない。
「遅くなると母ちゃん、心配するけん。太郎。」
 手首をつかんで引っぱると、いったん抗うようにしたが、手を離さずに引いて歩くとそのまま歩き出した。
 すっかり陽も落ちて、真っ暗になっている。
 糸のように細い月がたまに雲の切れ間からのぞくだけで、電灯のない田んぼ道は真っ暗だ。
 いつの間にでてきたのか、自分の前をオオカミが道案内となって歩いている。
 太郎の目にも映っているのか、目線が時たま地面に落ちている。
 以前はこんなものは肉眼で見えなかったはずだ、二人とも。「共鳴する」と加畠は言っていたが。
 
 ……太郎は、祖母の代わりなのか。
 
 信も力をつけるには、共鳴する相手がいるのだ。 だからと言って、太郎までこんなものが見えるようになって、どうする。まさか本当に信の代わりにしようと考えているのか?
 なにもかも、加畠の思い通りに進んでいるのだろうか。頭の中がいろんな考えでいっぱいになる。
 
「このオオカミは、人を殺せるのだろうか。」 考えがまとまらないうちに、言葉になった。
 
 今の拝霊会は、たしかに大きな事をするときには、工事屋などの人的な力を使っているのかもしれない。しかし信は祖母が、神霊を使って他人を呪わせていたのを見ている。
―――このオオカミは、信のために働くだろう。
 拝霊会や、その周りの人間すべてを殺してしまえば。すべては無理でも、自分の周りに手出しをすると命に関わる、ということを知らしめしてやれれば。
 自分の中の、しばらく抑えられていたどす黒い感情がむくむくと沸いてくるのを感じる。
 オオカミの横顔が、信の心の中を読み取ろうとしている。
 
 気がつくと、力まかせに太郎の手首をつかんでいた。太郎の手が震えている。痛いはずなのに、太郎は黙って我慢していたようだ。信が怒っていると思ったのかもしれない。力をゆるめると、はぁ、とため息が聞こえた。
 
 古森の家につくまで、太郎の手を離さずに歩く。玄関に先に入れて、扉を閉めてからようやく手を離して―――太郎の表情を見て、やっと分かった。
 
 震えているのは、自分の手だ。
(続)




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