神霊狩小説B


(61) ひなまつり・水天町



 
 
 太郎と信が学校から帰って台所に入ると、かすかに甘い花の匂いがただよってきた。ぱち。ぱち。背中を向けた太郎の母親が、桃の木の枝を切っている。
「お母さん。ただいま。」
 太郎が声をかけると、母親は振り向きざまに目だけでうなずいて、短く切った桃の花を手に静かに隣の仏間にはいって行く。小さな花を仏壇にそなえて正座すると、太郎に手招きをした。毎年、この時期は “女の子の祭り” のせいで瑞香のことで頭がいっぱいになる母親を、太郎はどうしようもない思いで見つめてきた。
 二人が並んで座るのを見て、信は何も言わずに二階に行ってしまった。
 
 太郎は、仏間にいるお母さんが少し苦手だ。
 
 
 もう12年になるんやね。瑞香の写真を見て言う言葉が、独り言なのか太郎に言っているのか分からない。
「お母さんね…。」
「ん?」
「お母さん、瑞香んこつ……。」
「……。」
 写真を見て黙る母親といると、太郎はどきどきしてしまう。また以前のようになってしまったら、どうしよう。
「お母さん…9月の台風ん時、瑞香に会ったち話したん覚えとると?」 ふいに太郎に顔を向けて聞いてきた。「あんた、あん時もそげな困った顔しよったとよね」 母親は手を伸ばして、太郎のおでこに触れると、また仏壇に顔をむける。
 
「お母さん、瑞香がね。最後、どげに苦しかったかち、ずっと思っとったの。どげに怖くて苦しかったか。」
 太郎は言葉が出ない。なにか言おうにも、あの時のことをよく覚えてもいない。
「そんでね、その怖くて苦しかまま時間ば止まって…ずっとずっと、怖くて苦しかままにおるんやなかか、心配で心配で、どげんもこげんもならんかったとよ。」
 
 母親の想いとは、こういうものか。太郎は自分と同じように、ただ瑞香に会いたいと思っているんだと――― それだけしか思っていなかった。母親は写真に語るように続ける。
「台風ん時に会えた瑞香は、元気やったの。前んままで。だけん、もう苦しか思いばしておらんち分かったけん、すごく嬉しかったんよ。」
「……そげんね。」
 そげんよ。ふっと息をつくと、太郎の頭に手を伸ばしてきた。
 あんたは小さい頃から、ここんことだけハネるとよね。太郎の髪をつまんで愛しそうに笑う母親を見て、太郎の顔にも笑みが浮かぶ。笑って、目を細めると、ぽろりと涙が落ちた。
 
「そうそう、今日ね、甘酒作ってご近所に配ったとよ。お祝いもんやけん、あんたたちも飲みんしゃい。信、呼んできてね。」
「…うん。」
 
  *  *  *

 

 

 甘酒をおちょこ一杯飲んだだけで、体が温かくなり眠気がおそってきた。
 テーブルの上につっぷして うとうとしていると、「…信。」 太郎が声をかけてくる。
「まこと、まこと。」 体を叩かれて、信が顔を上げようとしたとき、「まこと〜っ!」 太郎が横から抱きついてきた。
「なんね、ああ?」 しがみつく腕をほどこうとすると、よけいに力をいれて抱きついてくる。太郎は信の背中に顔を押しつけて、もごもごと何かを言っている。
 太郎の母親が、あっけにとられているのか困っているのか分からない顔で見つめている。
「……酒かす入っとるとばってん、いつもお味噌汁んとき、大丈夫やったと?」
「え…いや、ちょっと太郎、取ってくれんね」
 太郎はずっと もごもご言っている。よくよく聞いてみると、どうやら 「まこと、死んだらでけんばい〜ぃ」 泣きながら訴えているようだ。
「ごめんね、さっき仏間に連れていったけん。」 太郎の母親は、また泣きそうなのか笑いをこらえているのか分からない顔をする。
 横のリビングにいた太郎の父親が、台所に来て 「お、信。背中に でかいダッコちゃんば付けて。よかねぇ。」 …こっちは明らかに楽しそうだ。
 
 父ちゃんまで酔うとるとね。太郎を はがすのをあきらめた信が、肘で太郎の頭をぐりぐりすると、太郎は ふぇ〜と気の抜けた泣き声をだす。
「太郎、こげに酒に弱くて大丈夫かね」
「蔵元んなっても、味見んたびに信にしがみついとったら、蔵の人もびっくりするやろねぇ。うふふ。」
「信、責任とって面倒みんね。他ん人にそげなこつしとったら、捕まるけんね。」
「なんの責任ね。ちゅうか、せめて 『責任もって』 やろうもん。」
 
 
*  *  *

 

 
 耳をくっつけた信の背中から、お父さんに文句を言うくぐもった声が聞こえてくる。信の手と背中が温かい。
 
 
 ああよかった。信は元気だ。
(終)



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