神霊狩小説B


(57) 2月×日 水天町


 
 
 久間田から帰るバスに乗っていると、途中から雪が降ってきた。
 白い塊がバスの窓に当たっては溶けていく。外は寒そうだが、傘を持ってこなかったから雨よりはマシか。
 水天町のバス停で降りようと立ち上がると、乗り口のドアが開いたのに、待っている人が乗ってこない……と思っていたら、バス停に立っていたのは太郎だった。
 
 バスを降りると太郎が傘を差し掛けてくる。
「なんばしよるとね。」
「信、傘ば持っとらんやったけん、迎えに来たとよ。」
「おいの傘は」
「ん? これしか、なかよ。」
 雪ぐらい大丈夫やけん、と傘から出ようとすると 「せっかく迎えに来たとやに
――― あ、2人で入るの恥ずかしか?」 今さらの質問をする。
 黙って歩き出すと、太郎も黙ってついてきた。
 
 降っているのは大きな ぼたん雪だ。積もるかもしらんね。太郎の声に空を見上げる。
 真綿のような雲から降りてくる雪は、やはり真っ白のはずなのに雲よりも黒く見える。じっと見ていると遠近感がなくなり、軽い酩酊感を覚えた。体からオオカミが抜け出て空を駆ける。
「早く帰らんと風邪ひくとよ。うわっ」 立ち止まる信に声をかけた太郎の前を、オオカミが横切った。
 
 神霊というのはそれぞれ好きなものがある。巫女の舞を好むもの、香や蝋燭の火を好むもの、酒を、笛の音を、鈴の響を好むもの。このオオカミは 『太郎の声』が好きなんだろうか。本家の血そのものに惹かれているんだ、と加畠が言っていたような気もする。
「今日は見えるとね?」
「うん。風んごたる感じるだけん日もあるとばってん。今日は四本足たいね。」
「そげなもんに好かれて、気色悪かろうもん」
「…べつに。」
「おいに遠慮せんでよかばい。」 少し話をしたくなって、歩き出した。「そいは、他人ば呪ったりする道具やけん。ぬしは近づけんほうがよか。」
 太郎は黙ってオオカミを見ている。
「ちゃんと操れるごつならんと、なんばしでかすか分からんげな。」
「そげんね?」
「呪いばかけようち思わんでも、おいが無意識で誰かを妬んだり恨んだりしただけで勝手に害ばなすかもしれんち…加畠のババアが言っとった。」
「ふうん。」
 太郎はまったく怖がるでもない様子だ。
「ぬしは、嫌いなもんとかなかか?」 多少の皮肉が混じった質問だ。自分は太郎が誰かを悪く言ったりするのを聞いたことがない。そういう性格なのかもしれないが、ときどき太郎は誰にも興味がないのではないのかと疑うこともある。
 
「僕はくさ……物はともかく、『嫌いな人』 やら作るこつがキライばい。」
「なんね、それ。」
「信、自分の好きなギターんこつとか、よく考えるとやろ? 好きな物があると、そん物んこつばよく考えるとよ。ばってん僕、嫌いな人ができても、そん人んこつもよく考えよると。『明日はそん人に会わんとでけんち、イヤやなぁ』 とか 『今日は話ばせずにおられますように』 とか。そげなこつば。」
「まあ、そりゃそうたい」
「そげんやって嫌いな人んこつば考えるとがイヤやけん。人ば嫌いになることがキライばい。」
 お互い複雑な子供時代を過ごしてきて、太郎はそういう風に自分を守るようになっていたのか。他人を許すことで自分の心を守る。簡単に言うが、PTSDなんかになるくらいだ、どこか無理をしているんだろう。
「おいは嫌いな人間だらけやけん。よく分からん。」
 言い放つと、太郎は信の表情を読むように顔を見て、そげんね、と一言だけつぶやいた。
 
 
「信、おんぶしちゃろか?」
「…おんぶ?」
「信が僕ん背中に乗って、上から僕んコートば着てフードかぶったら見えんごつなるとよ。そいで傘ば持ってくれたら二人羽織ごたるなるけん、あいあい傘には見えんとやろ。」
「話題が変わったなら、そう言わんね。ちゅうか、そっちの方が恥ずかしかやなか。」
「はは。信は賢かねー。」
「バカにしよるとか」
 結局、太郎にずっと傘を差しかけられたまま古森家まで来てしまった。
 玄関の前まで行って、迎えに来た太郎に礼も言ってないのに気がついた。
「なんね?」
 太郎が自分に顔を向ける。
「…いや。」
 素直に礼を言えばいいのに、黙ってしまった。「たまには信と散歩も楽しかね。」 毎日一緒に学校に言っているのに、『たまに』 はないだろう。太郎が傘をたたむと、オオカミがまた太郎の横を飛んだ。太郎の目がそれをとらえる。
 
「僕は、こいば怖かとか思わんばい。」 抑揚のない声が、一瞬神託を下す審神者(さにわ)を思わせる。「こいのすることが、『信が無意識に思いよること』 やったら、僕に悪かこつばするわけなかけんね。」
 その自信は、どこから来るんだ。太郎が笑うと、オオカミは喜んでいるかのように太郎の体をくるりと一周してみせる。『無意識』 とか、いま言ったところだ。
「…今のそれは、違うばい」
 否定するそばから、オオカミはまた太郎の体にすり寄る。
「違うけん」
 太郎が 「はいはい、違うとね。」 と玄関の戸を開ける。
 
 くそ。絶対コントロールできるようになってやる。
 オオカミを にらみながら玄関に入ると、主を安全な場所まで送る義務を果たしたそれは、温かい空気に溶けるように消えた。
 
(終)




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