神霊狩小説


N 10月×日 水天町・古森家縁側

 
 
 夜、風呂から出ると、縁側に太郎の父親が座っているのが見えた。酒を持っているようだ。黙って横を通るのも気まずいので 「こげなとこで飲んどるとですか」 声をかけた。
 太郎の父は信を見てなにか言おうとしてから口をつぐみ、
「あー、酔うちょるんかな、一瞬英くんがおるんか思った」 と言った。
「まあ座りんしゃい」 やっぱり少し酔っているんだな、と思いつつ信も隣に座る。
「信はほんとに英くんそっくりたい」 嬉しそうに言われた。信が覚えているのは、あの部屋で血だらけになっている父の姿だけだ。
 
「どげな、人でしたか」 やっと声がでた。
「英くんかー。いい子じゃったよ。家があれやったけん、いろいろ悩んどったけど。おいの前ではよくしゃべったしよく笑ったとよ。…東京に遊びに来たときも、ホントは何か悩みがあったとやろね、それば聞いて欲しかったとかもしれん。
なーんでおいは気がつかんかったとかな。」 言いながら、酒を口に含んだ。
 しばらく黙っていたが 「あの、本当によかですか、あん部屋」 と訊いてみる。
「…ああ、ずっとあのまま置いておくのもどうか思っとったけん。」
 また酒を一口飲む。娘のことを考えているのだろう。この人の中にも、太郎たちにも打ち明けられない悲しみがあるのだと思うと胸が痛んだ。
「なんで、おいにこげによくしてくれるとですか」
「ん? そげんね…あん頃、おいはまだ若造じゃったけん。」
「あん頃?」
「英くんのこつ、なんも助けてあげれんかったとよ。今さらどうしようもないけん、せめて太郎には同じ後悔ばさせたくなか」
 兄弟のように仲が良かった、と言っていたが、この人の存在は父にとって
どれほどの救いだったろう。
 
 また沈黙が続いたあと、信は心の中にずっと刺さったままの質問をした。
「あの…フゾウって、なにか知っとるとですか」
 太郎の父は少し驚いたようだ。 「フゾウ? なんでそげなこと訊くとね?」
 信がなにも答えないのを見て 「慧さんでも言うとったとね? 腐造っちゅうのは、文字どおり、雑菌で酒が腐ったようになるこったい」 と続けた。
 全部の酒がダメになるので、腐造が2年も続くとどんな酒蔵もおしまいになる、しかしうちでは何十年も腐造を出したことはないから心配はいらない、と言って
「なんね、信は酒造りに興味あると?」 少し嬉しそうに訊いた。
 
「こげなとこで飲んどるとー?」 太郎が髪を拭きながら歩いてきた。思ったより
2人で話し込んでいたようだ。
 太郎の父が 「なんでもよか、困ったことがあれば、おいに言いんしゃい」 と言いながら立ち上がる。
「おいに言いにくかったら、太郎にでもよか。信もまだ子供なんやけん、もう少し甘えてもよかたい」
 信の頭をポンポン、と叩いて台所に行った。
 
 
「お父さん、信と話がしたかったごたるねー」 太郎の言葉にぼんやりと考える。
 父は、自分の妻があの人の家に不幸をもたらしたことを知ったとき、どう思ったろうか。
 ―――父は……
 一瞬、全身に鳥肌が立つような感覚に襲われる。
 考えてはいけないことだ、と心の奥で声がした。
「信? どげんしたと?」 …太郎の声がよく聞こえない。
 
 
 ―――父が、最後に目玉をえぐり出しても見たくないと思ったのは、母と自分ではなかったのか。
 



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